二世帯住宅

PACは二世帯住宅にピッタリ!の理由

二世帯住宅は老若男女が共に暮らす場所。 その年齢的幅の広さに応えられる環境であることが望まれます。
PAC住宅なら、年齢差の大きい家族の一人ひとりに、また、アトピーや過敏症のご家族にも、寒がりや暑がりの方にも、家族の様々な生活形態にも対応していける柔軟な家づくりが可能です。

  • 家中の温度差がなく、お風呂場や夜中のトイレも安心。
  • 部屋間の不快な隙間風がなくなります
  • 湿度バランスを保ち、ジメジメも、乾燥し過ぎもありません。
  • カビやダニなどの発生を抑えられるのでアトピーの方にも安心です。
  • 混ざりモノのない本物の漆喰は過敏体質の方にもお勧めできます
  • 低温輻射暖房システム「かくれん房」で建物全体が穏やかな暖かさ。
  • 夏は自然な木陰の涼しさを。
  • 世帯を分離しても、各世代はふれあいのある広がりのある間取りに。
  • 家族にも、家計にも、地球にも優しい建物です

各世帯が互いに尊重し合いながら、それぞれの暮らしを豊かに。 そのためには赤ちゃんからお年寄りまで、身体に負荷のかからない環境を保つことがとても大切です。 二世帯住宅こそPAC住宅をお勧めしたい所以です。


二世帯住宅間取り4つの事例

事例1「ともに暮らす」 事例2「それぞれのくつろぎ」 事例3「朝夕の挨拶でふれあう」 事例4「側で支えあう」

こころ素直に二世帯住宅

「二世帯住宅にしてよかった。」そう思えるように、暮らすメンバーそれぞれが自分の心を素直に見つめ、 きれい事だけでなく世代が異なる家族と暮らすという事はどういうことなのかを改めて自分自身に問うところから始まるのではないでしょうか。 そんな思いの2つのテーマです。

バトル!二世帯住宅

ヤマアラシのジレンマ、スープの冷めない距離がいい
(書籍「やっと出会えた本物の家」より)

バトル!二世帯住宅

嫁、姑、所詮は上手くいかないもの、と割り切った方が、実態に合った家づくりができそうな気がする。 以前から疑問に感じていたことに、普通は結婚すると双方の両親をお父様、お母様と呼び合うことだ。 このこと自体に無理があるのではないかと思ったりする。

とても親しい、信頼できる人生の先輩が現れたととらえれば、もっとつき合い方も違うというもの。 お父様、お母様ともなると、血のつながった両親と比較するわけでもないのだろうけれど、不満がでてくる。 親にしても同じで、自分のお腹を痛め育てた可愛い息子や娘と同レベルでは考えられないはず。 妙に期待したり、そうあろうなどとすればするほど、長続きしなくなる。 二世帯の動機から考えても、むしろ親の方がクールにならないとこんなはずではなかったということになりかねない。

何故なら、昨今の二世帯の事例を見ると、親の住まいを建替えての同居がほとんど。首都圏などにおいては経済的理由が第一となってくる。 両親の老後へのいたわりや、精神面でも成長し続けられるようサポートしていこうなどというよりは、もっともっと現実的で、自分たちの暮らしを成り立たせるためということになる。 現実といえば現実なのだけれど、二世帯でつくって、親が亡くなった後、誰かに貸せるように計画していた息子さえあった。 しかもそれを両親に伝えたものだから、最初からバトル・両親が腹を立て、結局家づくりは保留となっている。 両親からすればさほど期待はしてないものの、こころのどこかでは老後の面倒を見てもらえるかもしれないと思っていたり、自分たちの居なくなったことを考えてはいても、そう露骨に言われては身も蓋もないというところだろう。

気の毒な事例はまだある。子どもたちは同居する意思がないのに、もしかしたらとの期待で二世帯用の家づくりを考える親がある。 こうしたさまざまな思いをお互いがどう現実として受け止めているか、現実から目をそらしていては、二世帯の家づくりは失敗に終わりそうだ。 動機がどうだの、仲が良いか悪いだのでなく、どういう暮らし方をしたいかを、クールにまず話し合わなければならないと思う。 クールであればあるほど、共同生活と割り切って、食堂やお風呂が一緒でも成り立つケースがでてきたりする。 お互いにルールを決めて結構合理的な生活ができるのではないだろうか。合理的ということと、冷淡ということとは違う。 むしろ日本人特有の、身内になればなるほどことをあいまいにしておく、こころで思っていても口にすることをためらう、そんなところから失敗が始まるのだと思う。 お互い揉めた時口にする「こんなはずではなかった」のこんなはずというのは勝手な思い込みだったりする。

要するに期待を裏切られた時に口にする言葉だ。最初から期待しないということではなく、期待が裏切られないようなお互いの認識があれば良いということになる。 夫婦の寝室や子ども室のあり方のところでも伝えて来ているけれど、かたちではないということ。 完全分離の二世帯でも友好な交流が持てる関係もあるし、同居というかたちそのものをかえって意識し過ぎて、ご近所の他人よりも距離をつくってしまうということもある。 かなり共有空間を持ち合った二世帯、ご多分に漏れずお互い後悔しているケースもあれば、けんかしながら親密になれたケースなど本当にさまざま。 親とは世代が違う、そして夫婦同士が理解し合うのだって大変なことなのに、その上、両親の生き方とも添おうなどということは無理なこと。 お互いの生き方に合わせることではなく、尊重し合うこと。 良いところも悪いところも、無理して親子としてのフィルターを通さずに見つめられたら、と思う。 後からつくられた親子、自分の両親と暮らしてきた時間と同じように時間をかけて理解し合っていく存在なんだとの認識が持てたら、不満も少なくなるのではないだろうか。

二世帯の利点がお互いに共通の認識になっていないとこれまた揉める。 例えば母親が仕事を持っていて、両親と同居ともなれば子どもの面倒はかなり見てもらえると期待する。 「忙しい時はいつでも面倒見るからね」などと日頃口にしていても、一緒に暮らす、しかも親代わりの認識で面倒見るとなると、これは実はできないというより望んでいないといった方が正解かもしれない。 たまに会って可愛がることはできても、それこそ毎晩のように夕食の世話をするなどということになれば「うちの嫁は」の常套句がとびだしてくる。 そうならないためには、一緒に暮らすことになって今までの生活と変わってくることを事前にとことん話し合っておきたい。

それでも実際に生活が始まれば、こんなはずじゃなかったということは絶対に起こると思えばいい。そんな時は直ちに軌道修正。 間違ってもこころにとどめ、愚痴や嫌味を言うことは避けよう。 愚痴や嫌味を言い続けていると、言ってる方の人間が愚痴だらけの人生に、そして嫌味な性格となってしまうものだから。


ヤマアラシのジレンマ、スープの冷めない距離がいい

ヤマアラシのジレンマ、ある冬の寒い日に一組のヤマアラシがお互いに身体を暖め合っていた、ところがお互いの棘が刺さり痛い、でも離れると寒い。 こうしたことを繰り返しているうちに痛くもなく、寒くもない距離を見つけていくという、かつて心理学の本で読んだ印象深い寓話である。

考えてみれば我々はみなヤマアラシだと思う。自己を守るためにいろいろな見えない棘を身につけている。 人によってみな棘が違うから、お互いの距離を見つけるために、何度も棘を刺し合うことになる。 ばらの花を象徴して、美しいモノには疎があるなどと言われるが、棘がすっと抜けた時はそれほど痛くもなく傷もすぐ癒える。 すっと抜けた時は気持ちよく、違和感が解消したさわやかな感触さえ残る。ところが疎が中に入ってしまうと、本当に小さな疎、こんな棘でどうしてと思うほど痛い。 そして一度入り込んでしまった棘は、棘の入っているところまで口を開いて、それから掴みとらなければ抜けない。 ひどく後まで痛みが残る。 もしこの棘をそのままにしておくと膿んできて、下手をすると致命傷となる。

人間は常に誰かを傷つけ傷つけられて生きている。
一人では生きられない生き物が、人のぬくもりを求めて求められて、傷つくことが解っていても、死ぬまでこの葛藤を続けていくことになる。 愛しているのに傷つける、愛しているからこそ傷つけるというべきか、いずれにしても棘の痛みに似ている。 そして愛が深いほど傷も大きく、憎しみも大きくなる。いわゆるアンビバレンス、愛憎背反である。 棘を抜いた後の傷をどう癒やすか、それは自分自身の人を憎むというとらわれから自分を開放してやることだと思う。 まるで傷つくことを畏れているかのように自分自身のこころに壁をつくり、自分を出さない人間がいる。 自分のこころに壁をつくることが、自分自身を傷つけていることに気づいてないのかも知れない。 なぜならそれは畏れから逃れるという、常に不安と同居した精神状況をつくることになり、決して平穏なこころの状況ではないからである。

夫婦、親子、兄弟姉妹、友人、親戚、知人、上司部下、師、そして男と女、男同士、女同士それぞれの人間関係の中に自己、自分の存在がある。 そしてすべての関係において一組のヤマアラシのカップルに象徴される、傷つけ合うことのない、ぬくもりの感じられる距離というものが求められるのであろう。 ヤマアラシのジレンマ、言葉を変えてヤマアラシの愛の教訓は、個対個ばかりでなく、集合体と集合体との間にも相通じる。 愛憎背反劇のさいたる舞台が家庭にあるなどと言ったらおこられてしまうだろうか。 ここには人と人とのあらゆる関係のパターンが凝縮されたかたちで存在している。 そうした個対個の関係がお互い自己主張し合って自己の存在を確立している場である。

ヤマアラシのジレンマの日本版かどうかは解らないけれど昔から日本人に慣れ親しんだ表現に、スープの冷めない距離、という言葉がある。 ヤマアラシのジレンマが個対個の心理的距離を強調するのに対し、スープの冷めない距離という表現には、物理的な距離から生まれる人間関係という意味あいが強い感じがする。 誰が言ったのかは知らないけれど、言い得て妙なる表現である。日本人らしく表現するなら味噌汁の冷めない距離になるのか。 ただこれでは何とも語呂が悪い。 このスープの冷めない距離に住む人間とのつきあいは、会いたい時にいつでも会える安心感、そんなものがある。 それでいて常に顔を合わせていないということの新鮮さ、そして煩わしさがないという良さがある。 愛憎背反劇の舞台が家庭であるなら、特に二世帯同居というテーマを考える時、このスープの冷めない距離をどうつくるかが二つの家族の運命を決することになりかねない。 特にお互い離れて暮らしていた二つの家族が一つ屋根の下で暮らすということはかなりの覚悟が必要となる。 一つの家庭の中だって嵐が吹くのだから、何をか言わんやである。

せっかく二世帯同居の家をつくったものの、別々に暮らしていた時の方がお互いよかったなどというケースは意外と多い。 無理して生活を続けると人間関係は益々悪化してくる。そのうち顔を見るのも嫌になってくるかも知れない。 反対に何だか気を遣って遠慮しながら暮らしていることに耐えられない、もうストレスの限界だなどということもある。 毎日楽しく、とまでは言わないけれど、少なくとも一緒に暮らすことがお互い違和感を感じず暮らせる住まいをつくりたいものだ。 スープの冷めない距離の人間関係を、どう一つの家の中につくっていくか。 そしてお互いの家族がどの程度の距離をつくりたいと考えているのか。

お互いが妙に世間体を気にして、仲のよい嫁姑を演じて二世帯の家をつくったりしたら、これは最悪である。 個対個でも同じことが言えるけれど、この場合はそれぞれの家族の違いをお互いが明確にすることがまず必要だと思う。 そして同居の目的が同じ空間で一緒に暮らしたいと双方が考えていた場合を除いては、見かけは一軒でも中に二つの家をつくるくらいの発想にたった方がよいのではないだろうか。 お互いが伴に生活するという、純粋な気持ちで同居したってうまくいかないことがあるくらいなのだから。 まったく生活を独立させた二世帯住宅を二世帯住宅と呼ぶのか、それならつくらない方が良いという意見もあろうかと思う。 しかしながら、家族とはしかじかこういうもののはず、というしめつけが、家族を崩壊に導いていると言ったら言い過ぎだろうか。 二世帯住宅に限らず、一つ屋根の下に暮らしながらも自分を客観的に見つめられる精神的ゆとりが、家族に対する思いやりを生むと思う。 そして、そうした精神的ゆとりは、お互いの適正なこころの距離がつかめた時にできるのではないだろうか。

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