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プラス思考の健康住宅づくり

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食事と団欒

「プラス思考の健康住宅づくり」1994年発行

 食事というと、家族がテーブルを囲んでいるという風景が思いおこされる。昔は座って食事をする家庭が多かった。食事中は、特に女の子は足を崩すと怒られた。今の子が正座をできないのは小さいころから椅子式の生活に慣れているせいだろう。
 正座で気付くことは、高齢者の方には足の関節を痛めている人が多いせいか、椅子式を好むケースが多い。
 いずれにしても食卓テーブルが登場するまでは、円卓のちゃぶ台が多かった。考えてみれば円卓に座式というのは家族の人数が限定されない融通性のあるものだった。
 食事の前には「いただきます」食後は「ごちそうさま」を必ず言うことが小さい頃から習慣づけられた。そして、食事中は親に怒られるほどに、賑やかだった記憶がある。ごはんが口に入っているときはおしゃべりを慎むようにとよくたしなめられた。恐らく食べながらでもおしゃべりをしていたのだろう。少なくとも食事の時間は家族の団欒のひとときであり得たし、朝などは家族の多いわが家では戦争のようなさわぎであった。
 現在はどうだろう。家族が揃って食事をするという家庭は少なくなってきている。核家族化で家族の人数が少なくなったことにも一因あるし、仕事をもつ母親が増えてきたこと、そして何より子供たちが忙しすぎることも原因と思われる。
 確かにわが家でも夕食時に父親が一緒ということは少なかった。それでも家族が多かったから十分賑やかだった。
 現在は学校から帰ってきても塾だのお稽古ごとだので子供が夕食時にいない、あるいは子供が帰ってきても母親がいないというケースもある。結果として家族がバラバラで食事をすることになってしまう。
 そして問題は、せっかく家族が揃ってもあまり会話がないことではないだろうか。今の家族の食事の風景には、必ずと言っていいほど、テレビが主役的役割をになっているような気がする。
 テレビは耳ばかりでなく、目も奪われる。家族がみんなテレビの方を向いて、食事をしている姿。食卓に目が向けられていない、家族に目が向けられていない、そこには食事を愉しむという、暖かさが感じられない。
 食事を愉しむ時間を持たなくなったから、手づくりの料理が減ったのか、こころのこもった料理が少なくなったために、食事の場が団欒の場としての空気を希薄にしてしまったのかはわからないが、少なくとも何か大切なものが失われてしまった。合理的に生活をする、個人の自由を尊重するといった精神が、ますますこころとこころとの結びつきを薄らげてしまってはいないか。
 便利な設備が家事労働を軽減させた。食事をつくるにも多彩な素材缶詰がある、時間のかかる煮込み料理もインスタントのスープで事足りる。電子レンジで暖めれば、即食事ができる。今や揚げ物も冷凍食品、しかも二十四時間入手できるという時代である。このままいくと、どの家庭も均一な味の料理となってしまう。◯◯食品の味・××食品の味というのが家庭の味に変わっていく日もそう遠い日の話ではなさそうだ。
 近隣とのつきあいが少なくなっている原因の一つに、家庭料理をつくらなくなってきていることが挙げられないだろうか。
 何故なら、自分の家でつくった家庭料理を近隣の家庭に配るという習慣が昔は頻繁におこなわれていて、そうしたことが豊かな人間的なつきあいをつくっていた。いただくと、今度は腕によりをかけて何かをお届けするという、終わりのない、やりとりが日常茶飯時だった。 お彼岸の時などは、何種類ものおはぎが届いて、家庭によって同じおはぎでもこんなに違うのかと驚いたものだつた。中にはおにぎりのような大きなおはぎがあったし、あんのこしたの、つぶあん、きなこ、ごま、お砂糖のかかっているのないのと、本当に個性豊かだつた。
 今小豆を煮て、さらしで超してあんからおはぎをつくる家庭はどれ位あるのだろう。手をかけてつくるから、せっかくだからと隣近所の分までつくって配る。
 しよっちゅうお赤飯が届く。どこそこの誰々ちゃんの誕生日だの、何やらのお祝いと。お互いの家庭の状況が届けられる料理でわかる。もちろんわが家でもお赤飯は前日の仕込みから始まる。せいろをいくつも重ね朝から大さわぎだつた。
 お彼岸だ、お盆だ、お月見だと、その歳時事の意味もわからず、でも母親が何をつくってくれたかは今でも記憶に残っていて、できる範囲で継承してきている。
 食品添加物のかたまりといっても過言でないファーストフードに子供たちを走らせたものは、買ってきたものをそのまま食卓に上げることに抵抗感をもたなくなった母親の影響も大きいのではないだろうか。